宮廷のみやび、近衛家名宝展に行ってきました

Photo 言わずと知れた、国宝金銅経筒(藤原道長埋納)です。

ちょっとピンぼけなのは許してください。

実物は、表面に刻んである願文がきれいに残っていて、裸眼ではっきり確認できます。

経筒が文書の記述により出土することが不思議ですが、中から道長自筆の経巻が見つかっているってのも凄いことですね。

当然ですけど、すべてを読みこなすことは困難なので、線刻の内容を解説展示してもらいたかったですね。御堂関白記の金峰山参詣の部分も写しでかまわないので、展示してもらいたかったです。読んでみてもどこがその部分かわかりません(恥)。

国博の企画展示は毎回見に行きますが、もう二度とお目にかかれない企画の連続なので、気が抜けません。

今回も五摂家の筆頭だけあり、近衛コレクションは圧倒的な迫力です。

前回の大徳川展は展示換えの度に行きましたが、それでも細部の見落としがあって、だいぶがっかりしました。

日頃の勉強・素養不足が祟って、書の展示に対して今ひとつ興味が湧かないのです。実は恥ずかしながら、藤原道長や行成も良さがよく分からないんです。書の展示は読んじゃ駄目だと言われるんですが、どうしても頑張ってしまいます。

ともあれ、近衛家凞の関連展示が多いので楽しみにしていました。

近衛家熙は当時の大秀才だと思います。当然ながら家柄が良いというアドバンテージがある訳ですが、とんでもない努力家だったようなので、いわゆる天才ではないと思っています。

加茂流の書道に始まり、近衛家に残るご先祖の書やら、空海・小野道風を手本にして独自の書風を確立している訳ですが、どんな書体も、ど素人の目で見ると展示品の中でナンバーワンに思えます。

家凞の手による絵画の展示もあるんですが、顔料を使用した作品はもとより、水墨画には見とれます。

茶道も卓越したものがあったようですが、家凞のコレクションが凄いです。

家凞愛用の茶杓箪笥は必見です。31本の茶杓を小箪笥に纏めていますが、細川幽斎・佐久間盛政・織田有楽斎・千利休があり、福島正則でまた驚きました。

個人的なお気に入りは金森宋和の茶杓です。流石は野々村仁清の師匠であり、武将達の削ったものとは全くたたずまいが違います。武将上がりなのにこの優しさ・優雅さでは、武将の親に勘当されるのも無理はないですね。

因みに仁清の色絵月梅図茶壺(重要文化財)が本館13室に展示されています。

茶杓の展示の前で、隣にいた初老の男性が千利休しか名前を知らなかったようでした。当然ながら家熙も知らないようでしたが、なんか勿体ない気がしました。せっかく見に来るなら、ある程度予備知識は必要だと思うんですが。

他の個人的なお気に入りは、白磁無地金襴手馬上杯でしょうか。この細工は初めて見るものでした。白磁に金を何らかの方法で貼ってあるんですが、記憶にありません。貼ってから焼いたものなのか、焼いてから漆などで彩色してあるのか解りませんでした。

刀剣の展示もありますが、本身より拵えに見るべきものが多かったように思えます。重要美術品に分類されていますが、備後住正の太刀が好みです。

今回の企画展の大半は陽明文庫蔵なので、京都まで出向けばある程度は再会できるでしょうかね、とても無理でしょう。文庫長お1人で管理されているそうですしね。

後期の展示換えも逃さないようにしないと、又後悔しそうです。

そうそう1月14日までですが、長谷川等伯の松林図にも年一度の再会ができます。相変わらず圧倒的な迫力です。

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大徳川展に行ってきました

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上野の東京国立博物館で、10月10日から開催された『大徳川展』に行ってきました。

将軍家と尾張、紀伊、水戸の御三家が所有していた至宝が300余点、これでもかと言わんばかりに鎮座しています。

写真は重要文化財歯朶の具足です。

徳川家康が大黒天の武装する姿を夢に見て作らせた所用の甲冑で、安土桃山時代16世紀に作成されています。

家康はこれを着用し、関が原・大坂の役に勝利したので、代々吉祥の鎧として具足祝いに床飾りしたといわれているようです。(受け売りです^^)

写真だと、何が歯朶(しだ)なのか判りにくいですが、実は前立てが歯朶の葉を模った物になります。

普段は久能山東照宮博物館蔵ですから、当然ながら滅多にお目にかかれません。

甲冑でスペクタクルを感じるとは、歴史好きも嵩じてきたと思いますが、司馬遼太郎の関が原を読んでからこれを観てみると、なんやらワクワクします。

徳川御三家の至宝も展示されているわけで、当然のように水戸光圀公の蒔絵印籠や、家康が征夷大将軍に任ぜられた際の勅許状まであります。

千利休が秀吉の命で切腹した折に、最後に自ら削って使用した茶杓「涙」と、唐物肩衝茶入「初花」がお気に入りです。

不思議に思ったのは、水戸光圀の印籠です。

Photo_5

ほとんど注目されず、人もまばらな位置で金蒔絵が光っています。

黄門様が旅に出る訳も無いので、実際には使われなかったようですから、当然か。

そうそう、国立博物館で企画展があると音声ガイドを借りられますが、非常に困るのは私だけですかね。

音声ガイドを使う方は、展示品の前で動かなくなってしまうので大渋滞します。

ガイド使用の方が3,4人続こうものなら想像に難くない事態となります。

一度列から外れて、ガイドを聞き終わった後に見ていただけないものでしょうか。

まあ、初日にのこのこ観に行く私もどうかとは思いますが。

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霞城です

_1 霞城ですが、いわゆる山形城です。

他にもかすみ城は在るようですが、ここのお城は『かじょう』と読みます。

ごく短期間、お城の近くに住んでいました。

それにもかかわらず、上山城の回で白状したように、最上義光を「もがみよしみつ」と読んでいました。

すぐ近くに最上義光記念館があり、かなりの資料が揃っています。何回か足を運んでいるのに、先入観とは恐ろしいし、お恥ずかしい。

さて、山形県にはお城がかなり在ったんですが、形として判るのはここと上山城くらいです。

天童城、長谷堂城、中野城、等はもうなんだか判らない状態です。小学校であったり、公園になったりしています。石碑を見つけないと、気が付きません。

霞城も実は公園です。

最上家57万石のは夢となり、面影を残すものはお堀位かもしれません。

主だった遺構は、戦時中に軍本営を設置したことによって切土整備されてしまいました。残念なことです。

写真は復元された二の丸東大手門です。それらしいのは、大手門とお堀くらいだろうと思います。

とは言うものの、復元は緻密で筋の通った手法で現在も進められていますから、いずれ掛川城や、白河城、亀城に準ずるようなものを期待したいところです。

門の後ろは良く整備された公園です。著名な当主最上義光が、馬に跨った像もそこに在ります。

行くなら4月下旬ですね、園内1500本の桜が一斉に花を咲かせます。弘前城には敵わないでしょうが、見応えがあります。

周辺には旧県庁の文翔館、郷土館、資料館があり、観るのに1日では足りませんし、少し足を延ばせば立石寺がありますから、本堂に登らない法はありません。

Photo そうそう、旧県庁の文翔館は大正5年に完成した、英国ルネサンス様式の風格ある建造物です。重要文化財指定を受けており、10年掛りで往時の姿に復元されています。

復元に際して、当時の技法を忠実に再現しています。

このような建造物では珍しいのですが、建物全体に素屋根をかけて、屋根の木組みから復元作業しています。床は寄木造りですし、壁の装飾は漆喰なんですからね。

漆喰飾りは型抜きと、手盛り装飾の花で飾られていますが、とんでもない代物です。

現物を見てもらえたら判ると思います。

凄いのはこの建物自体無料開放されていることと、希望すれば非常な安価で結婚式も、会議も出来るということです。一番高い室料でもホールで2万円でたっぷりお釣りが来ます。何回か利用しましたが、会議の参加者に非常に喜ばれました。

今回は観光案内だな。

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上山城です

_1 上山城です。

別名、月岡城と言います。

最上義光の支配したお城です。

米沢市が近いですし、高畠、赤湯はすぐ側ですね。上山市も周辺町村も温泉が豊富です。蔵王の山すそに位置してるからです。

米沢が伊達氏の支配下だった時に、この城の先代が建ったんですが、あまりにも山の上に築城したので、現在地に移転したんですね。当時は高楯城と、称したらしいです。

実は、山形にも少しだけ住んでいましたが、最上義光の名前を、もがみよしみつだと勘違いしていました。当然ながら、よしあきですよね、お恥ずかしい限りです。

山形で最上氏のお城と言うと、霞城(かじょう)を思い出します。しかし、霞城に遺構はほとんど残っておらず、きれいな公園になっています。お城らしいのは、上山城くらいなんです。

山形県は、その名の通り山に囲まれていますから、盆地だらけですが、上山の盆地周辺で、最上氏と伊達氏の衝突が頻繁に行われていたってことです。最上氏の支配地の南限になる訳です。

米沢は上杉氏ですし、伊達政宗は米沢生まれですし、徳川家康に味方した直江兼続はこの地で大負けしちゃうし、実の所、大変な場所なんですよ。

さてお城ですけど、天守に見えますが、全く関係ありません。あえて言うなら櫓の類ですし、コンクリ4階建ての資料館です。400円で入城可能です。かなり楽しめます。展望台からは蔵王や上山盆地が一望でき、景色は最高です。

あ、遺構ですか?ほとんどありません。石垣と土塁と内堀くらいです。当時の天守は徳川家康がこぼってしまいました。

良いじゃないですか、歴史的に日本が動くきっかけになった場所なんですから。

当時の人間模様に思いを馳せて楽しみましょう。

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江戸城です

Photo_2 江戸城なんです。平たく言えば皇居ですよね。

但し、写真は明治4年ですけど。

崩れかけている石垣に波を打つ瓦屋根、破れた板塀等々、全くひどい状態です。

末期の幕府、大政奉還直後の江戸城は酷く疲弊した姿です。

止めは関東大震災で、ほぼ粉々になってしまいました。

創建当初は石垣なんて結構なものはなく、土を掻き揚げて土台にし、矩面状の景観であったらしいんです。

関東ですからね。

近畿圏の城郭のような優美さも、政(マツリゴト)を意識した城下町形成も後世の話です。

明治4年当時は、東京城(トウケイジョウ)なんて呼ばれ方だったらしいです。

現在は千代田城が別名ですが、江戸という地名が、元々人物名だというのは、なかなか認知されていませんね。

江戸重継が本拠をこの地に定めたところから、江戸という地名になったわけです。

後北条氏の世では小田原城が本拠地ですし、江戸城はただの支城ですからね。

千葉も千葉氏の支配下にあった訳ですし、支配者の姓が地名の由来であることは、かなり多いですね。

太田道潅の築城で知られていますし、家康の居城だったんですが、形として完成に近づくのは、幕府の政権諸事が固まった頃、三代将軍家光の時代ですから、政権の中心地としての江戸はそこからなんでしょう。

ただ、残念ながら親近感が湧かないのは何ででしょうか。これだけ近くで生活をし、仕事をしているというのに、浜松城や掛川城、霞城、上山城のような生活圏に近い城とは全く違う感覚です。

仕事で都内を走っていると、ほぼ城下をウロウロしているようなものです。ところが不思議なもので、入城した経験は一度しかありません。

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小田原城に行ってきました

Img_1774_2  小田原城天守閣です。

通称小早川城、小峰城とも言うんですね。

3層4階のコンクリ復興天守閣ですが、江戸時代の雛形や図面に基づいているので良さげに見えます。

雛形や縮尺模型が天守内の資料館に展示されています。これは非常に精密な造りですし、何故か2対並んでいます。

良い武具、見事な刀剣も数多く展示されており、興味が尽きません。若干手入れが悪いようで、刀剣にはくすみが来てますが。

この城は、戦国大名後北条氏の居城として名高く、箱根と相模湾を要害とし、難攻不落を誇った巨大城郭な訳です。

小田原の市街地は、ほぼ城郭内に入ってしまうのではないでしょうか。

後北条氏は関八州の番人と呼ばれた訳で、伊豆半島を足掛りに、八王子から川越・佐野、後に千葉までが版図ですから、強大な勢力ですね。

そりゃ本城もでかくなるはずだ。でも何で 動物園 が有るんだ?

五代続いた北条は、豊臣秀吉に滅ぼされますが、その頃の住民は江戸時代まで、北条氏の安定した施政を懐かしんだという事が伝えられていますから、良い領主だったようです。

五代続いた領主はそうはいない筈です。安芸の毛利氏に匹敵するほどです。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)が始祖なんですよね。

北条早雲の出自は駿河の国、今川氏の縁者と言われていますから、日本の歴史を作ったのは東海地方の豪族たちと言うことになるんでしょうか。

織田・豊臣・松平は東海ですしね。

関東・中部・北陸・中国の大名も歴史に登場しますが、この国の覇権を握ったのは東海の人たちと言うことです。名古屋を小馬鹿にしちゃいけないよなーー

先だって千葉にも行ったので、里見氏との海を挟んだ攻防の歴史背景は、記憶に新しい訳ですが、甲斐の武田・越後の上杉、そしてあの真田とも抗争を繰り返していたんですね。

室町時代から戦国時代にかけて、北条氏は関東の雄として歴史に名を残しているにもかかわらず、神奈川の官僚はお城に興味が無いらしく、県内の城址は整備が行き届いていません。

黒船の方が脚光を浴びています。悲しいなー

そうそう、天守の刀剣展示コーナーで大したもんは無いと言っていたハンチク刀剣ファンの貴方、そう貴方ですよ。もっとじっくり鑑賞しなさい。

これだけ揃っている場所は、国立の東京・京都博物館と、あとは大多喜城の展示くらいですよ。

全く適当なんだから。

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日野宿本陣に行ってきました

Img_1756 日野宿本陣は都内に唯一残る現存本陣です。

JR日野駅からはやや離れています。

歩いて行けない事もないですが、本陣の前に駐車場が有るので、車での訪問が正解だと思われます。

何度となく本陣前(甲州街道)を通っていたんですが、何じゃこの史跡は、いつか覗いてやろうか位に思っていました。

入場も実のところ暇潰しの心算だったのです。

ところがどうして、なかなかのもんでした。無知とはげに恐ろしい。

何しろ、新撰組です。日野は土方歳三の故郷なんですよね。

日野宿本陣は、名主で本陣のあるじ佐藤彦五郎が長屋門を増築して天然理心流の出稽古道場を開いたという所なんですね。

彦五郎の親戚にあたる土方歳三はもとより、近藤勇、沖田総司も稽古に訪れた道場です。うーんスペクタクル!!

まあ、現物は焼失してるんですけど。

とは言うものの、先ごろ鶴ヶ城と小峰城、ついでに白河の関に行ったばかりですから、感慨深いものがあります。(戊辰・北越戦争の舞台ですよね)

Img_1759 内部はこんな感じです。歳三が昼寝したと言う座敷がちょっと見えてますが、よく分からんという御仁は訪問されると宜しい。

ちなみに入場料は大人200円です。

ボランティアの方の丁寧な解説は、拝聴しないと大損です。

日野市が民間から買い戻したつい最近まで、蕎麦屋だったらしく、一部損なわれている部分もありますが、本陣らしくがっしりとした造りです。

まあ詳しくは日野宿のホームページかWikipediaで確認して下さい。

本陣周辺は、新撰組・土方歳三縁の旧跡がてんこ盛りなので、本気で新撰組探索するなら一泊です。

それにしても、とてもじゃないが書ききれん。投げ遣りですが許して

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小峰城に行ってきました

Img_1490 小峰城です。

このお城も本気の復元ですよね。

三重櫓を天主に見立てて、いちいち忠実に復元されていますが、ともあれ石垣がとんでもなく凄い代物です。

東北のお城は主に土を掻き揚げて土塁にしたような、素朴と言うか田舎風というか、洗練された感じは無いのですが、鶴ヶ城・盛岡城位は石垣で造られており、立派です。青葉城や霞城はどうかなー、二本松城・白石城・上山城もなー

知り合いに、小峰城ってどうよと、尋ねたら「どってことないよ、何にも無いし」と言われて真に受けてましたが、オマヌケな話ですよね。

好きじゃない人には、どうでも良いお城なんでしょうか?

復元城では掛川と双璧に思えますし、戊辰戦争では藩主不在のまま参戦したり、歴史的興味も尽きませんね。

結城氏の築城と言われていますが、実際の構成は後の城主丹羽氏なんでしょうね。どの道、そうそうたる有力な城主が歴代の守護となります。

そういえば、以前天主(三層櫓)は建築基準法違反で入場出来なかったんですよね。

木造でここまで大きな構造物に、基準法自体が想定されていなかった訳ですから、法律が悪いんで、お城に罪は無いんです。

他の復元・復興城は、基準法に則ったもしくは手間を惜しんでコンクリで造られたんですから、ここや掛川はエライんです。

間違い無く。

そうそう、城内の一角に集古館があり、結城・阿部家の資料が展示されています。

かなり業物の刀剣、武具の展示もあり必見です。

でも、何で写真撮影が禁止なんでしょうか。館長さんに掛け合ったんですが、きっぱり断られました。

撮影して困るものは無いと思うんですけどね。少なくとも金属類は問題ないでしょ。ストロボ焚く訳じゃないんだからケチるなよー。断る理由に困るくらいなら許可しろよー。前例が無いなんて言い訳にもなってないよなー。

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会津若松城に行ってきました

Img_1721_1 会津若松城です。

もっとも福島の方達は鶴ヶ城としか言いません。

日和見将軍徳川慶喜に、最後まで忠誠を尽くした会津中将松平容保と白虎隊の悲劇が有名ですよね。

個人的に幕府の忠臣としての容保に思い入れが強いので、戊辰戦争の官軍サイドに立った心無い記述を読むとムッとしちゃいますね。

大分前になりますが、会津若松市長と萩市長が、行政懇親会か何かで握手したら、戊辰戦争以来の歴史的和解と大きく報道されました。

歴史は今も生きていたんですね。今までどうしてたんだ?

ところで、調べていて気づいたんです。

その忠誠心に微塵の疑いも無いのですが、白虎隊ってひょっとすると戦っていないんじゃないですかね?!

戦いの場に赴いたところ、すでに占拠されていたため引き返し、城から火の手が上がっているのを遠望し、落胆し自刃。っておマヌケ?

ところが、明治時代までお城は残るし、容保も生き残る訳ですもんね。辛いなー。

容保が目黒区で亡くなったというのも意外な事実ですよね。

そうそうお城です。再建する時、現存する石組みを残すために、4本の鉄骨で5層5階の再建天主を浮き支え構造にしているんですよね。そりゃまたすごい事をしましたね。

日本有数の城郭であり、その堅守はとうとう落城しなかった訳ですから、比類なきものがあります。

板垣退助の指揮する官軍の攻撃に耐え、破損したものの戦って残ったんですからたいしたもんです。

博物館になっている天主は、最近リニュアルしたらしくきれいでした。何てことを!!刀の展示は一振りだけになり、隣接の県立博物館も千葉の民族博物館にクリソツ。うーむ

そうそう、NTT福島のサイトで鶴ヶ城、小峰城、二本松城等のライブカムが見られます。

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